舞台 文豪とアルケミスト~異端者ノ円舞~
2020年最初の観劇。
舞台『文豪とアルケミスト~異端者ノ円舞』
続編決まるのがとてつもなく早く、しかも発表されたのが私の推し俳優である谷佳樹さんの円盤発売イベント(大阪)でした。
W主演だし、白樺派メインだし、東京の会場を除いて全てが楽しみの舞台。
早く年末にならないかな。
なんてそわそわしていた。
いざ、大阪で幕が上がると前作とはまた違う楽しさ、アプローチの仕方ででもそこにあるのは初演で作り出した『舞台 文豪とアルケミスト』という作品の雰囲気を纏っている。
だからこその初日からのスタンディングオベーションだったのでしょう。
以下は考察という程でもない私の思考と、感想になります。
序盤で見える主題と副題
今回の主題として武者小路実篤の著書である
『友情』
がメイン。
開演前にステージ上にスポットライトに照らされて置かれているのは、志賀と武者小路の書簡のやり取りを納めた本。
二人が長い年月を掛けて気の年輪のように刻んできた『友情』の一部を切り取ったかのような日常であった文字たち。
観劇の二回目以降に萩原の語りが終わった後に「拝啓」が劇場に響くと、胸が目頭が熱くなります。
ただ、バックボーンに
『孤独』
というテーマも入る。
誰が孤独なのか。
周りを固めるキャラクターが何故、その選択だったのか。
そう考えると
『友に残されていった人』
もしくは
『友を残していった人』
で形成されている。
これは今回メインになっている三人とも当て嵌り、志賀と武者小路、有島の関係とも言えるかもしれない。
時代的に友より朋の方がしっくり来そうな感じがしますが、朋友と書いたほうがどちらとも捉えられて伝わりやすいかな…。
だからこそ序盤のシーンは孤独という闇から始まり、萩原朔太郎の『僕の孤独癖について』からの引用を持ってきたのでしょうか。
そして、この序盤の語りは最後のシーンや、武者小路実篤の志賀直哉感にも、そのまた逆も表しているのかな。
だなんて思います。
そう、ここの序盤のシーンは天才ブルズの皆さんの呼吸で、闇の中での静けさが上手く表現されていて天才天才大天才!!ってなるので、全ての演出に於いて最初からテンション高く見られます。笑
異端者ノ円舞
異端者とは誰のことであったのか。
と最後見た時に思う人も多いと思います。
私の中だと今回の作品に特化していうと、白樺派の三人。(作家というのは誰でも周りから見ると『異端』そう思うところもあるので、特化)
何故か。
それは前作では全員に自分のコピーである侵蝕者と対峙するシーンがありますが、今回は白樺派の三人だけです。
そして、その対峙するシーンはほぼほぼ一対一の勝負。
戦うシーンが真っ直ぐに薙ぎ払っていくわけでなく、本当に踊るように回転しながら戦うんですよね。
有島も、志賀も武者小路も。
後半になると志賀と武者小路は相手を変えつつも円を描くように戦う。
つまりそれがこの舞台に於ける円舞なのだろうと。
白樺が異端なのは三人三様ですが、志賀は劇中で「太宰も貴族のあんよはどこにあるんだって言ってただろ(うろ覚え)」なんていうところや、「俺は親に勘当されて行く宛てもなくて(うろ覚え2)」というところで明白です。
貴族でありながら階級のない社会を作ろうとしたり、理想主義でありながら有閑階級であることに苦しんだり(ここもさらっと劇中で触れてますね)…。
そういう側面から見て、今回の『異端者』は白樺派の3人なのでしょう。
好きなのは白樺派が敵の留めの刺し方が、溜めて斬り捨てる。のが好きです。
そして、最初の語りで出てくる『ミネルバの梟』。
自著だと自身を指す言葉なのかなと思いますが、ミネルバは詩や知恵や、魔術やを司る女神で、彼女の聖なる動物は梟。
そのことから梟は知恵の象徴とされますが、この劇中では文豪を指し示すのかななんて思いもしました。
転生したことによってまた暗い暗い洞窟や、森や、路地やを抜けて一筋の光に向かってまた飛び立てるのであれば素敵ですよね。
また気が向いたら他のことも書こうと思います。
気が向いたことがあまりないですが。苦笑
書きたかったことだけ。
第三弾は北原一門メインかなー?!
9/19は或る図あるらしいんですけど、どっかぶりますか?!どうですか??
孤独であるという記憶以外がほぼほぼなさそうな萩原さんですけど、メインできたらどうなるんだろう。
「早く犀に会いたいです」
と言った三津谷さんは天才でしたし、日々の日替わりも萩原先生に則ったもので大天才でした!!
全部入れて欲しい。笑